部屋の窓際

好きなものについて描いたり書いたり。

1月10日 読書メモ「「いき」の構造」

 

火曜日。強風。
三連休明け。やや体調復調。仕事は過剰。

朝。ヨーグルト道。林檎。子供の頃には想像もしない大人なココア。
昼。おにぎり。鮭と塩昆布。漬物。御番茶。
夜。白米。里芋、人参、大根、ネギ、油揚げの味噌汁。白菜とタラのバター蒸し。

食後、お灸とカモミールティー。
すでに眠い。

 

「どうする家康」の録画を視聴。第一印象は、戦国版すりーはんどれっど?
信長のキャラ濃すぎ。しかも、次週もかなり濃い印象残しそうな気配。

 

 

「いき」の構造

「いき」の構造

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「いきの構造 九鬼周造」パイインターナショナル

大川裕弘/写真 谷村鯛夢/編

文章だけだったら絶対手に取らなかったタイプ。写真に惹かれて。

序説で「いき」の構造を述べるにあたっての方法論的態度の確認から、「いき」の内包的構造、外延的構造、自然的表現、芸術的表現を経て、結論に至る。
「いき」なるものを解剖することこそが野暮では?などと素人考えで読み始め、新たな視界を得る。ぼんやりとだけど。

媚態であり、意気地、諦めの三契機が軸か。色と武と仏と。
単語(用語)が馴染みのない部分もあるが、なかなか分かり易い。
ハッとして引用したい部分がぽろぽろ出てくる。

 

要するに、「いき」な色とはいわば華やかな体験に伴う消極的残像である。「いき」は過去を擁して未来に生きている。個人的または社会的体験に基づいた冷ややかな知見が可能性としての「いき」を支配している。温色の興奮を味わい尽した魂が補色残像として冷色のうちに沈静を汲むのである。また、「いき」は色気のうちに色盲の灰色を蔵している。色に染みつつ色に泥(なず)まないのが「いき」である。「いき」は色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿(かく)している。

 

縞や鼠色の何がそんなに「いき」として尊ばれていたのか不思議に思っていた人間には非常にわかりやすく、またロマンも感じる一説だった。
写真を眺めながら、文章と反復横跳び状態で読みすすめる。

いわゆるダンディズムに近い、と思ったら結論において西洋との比較もある。
ボオドレエルの作品や言葉などから類似点を確かめつつ、

 

「英雄主義」が、か弱い女性、しかも「苦界」に身を沈めている女性によってまでも呼吸されているところに「いき」の特彩がある。

 

さらに。
要は美学の一つでしょ、とだけしかぼんやり認識していない私のような読者にこれだけ説明してもまだ分からんのか、と丁寧な一閃。

 

かように意味体験としての「いき」がわが国の民族的存在規定の特殊性の下に成立するにかかわらず、我々は抽象的、形相的の空虚の世界に堕してしまっている「いき」の幻影に出逢う場合があまりにも多い。そうして喧しい饒舌や空しい多言は、幻影を実有のごとくに語るのである。

 

日本独自に育まれた一つの美学に関する考察。
間違っても、偏狭な民族主義の本などではない。

 

ちなみに。
語る上でいろいろと引き合いに出される文学や芸能や衣服や建築その他諸々が、時代としての常識もあるのだろうが、有閑人種、高等趣味人でなくては無理ですね、という嗜みの世界。しかも、その嗜みに執着してはいけない世界。

感覚的に「いき」であろうとする庶民と、それを構造的に解こうとする知的お大尽、という見方も出来る、と思うのは捻くれすぎだと自覚している。