部屋の窓際

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読書メモ「『パサージュ論』熟読玩味」



「『パサージュ論』熟読玩味/鹿島茂」青士社

読了。感想メモは、鹿島教授の敬称略で。
手にした時は、疑問符を浮かべたままとりあえず読了、になるかと思っていたが、本のまえがきにあったようにダンジョン攻略をするようなワクワク感で読了。

が、ワクワク感と理解度は比例しない。
鹿島茂がせっかくいろいろと噛み砕いて難解なベンヤミン世界を繙いてくれているのだが、私の理解は【熟読】には到底及ばない。
語学もそうだが、どんな分野もその分野の単語を知らないと咀嚼しきるのは難しいと痛感。
しかし、パサージュ論への道標には十分すぎるほどなった。
パサージュ論、文庫五冊を買ってしまうほどに。





『集団の夢』『コレクトする子供』『遊歩社の幻想時空間』『モード、再生の未来』『窓のない家』『無為の時間』『売春とモデルネ』『街路のシニフィアン』『眠る巨人』『夢の中の木馬』『テクノロジーとアルカイックなもの』『「ベンヤミン号」出帆!』の十二章構成。

以下、一部日記と被るが。

モンタージュ、が重要。顔写真のそれでなく、また二次元的なものでもなく。
多元的なコラージュ?それはすでにシュルレアリスムの世界か。
モードや売春、眠る巨人のあたりで何か掴めたような気になることが多々あるのだが、思考はうまくまとまらずあちらこちらに流れる。

全編を通じて【集団の夢】【個人の覚醒】【新しいものーアルカイックなもの】というキーワード。何よりも【蒐集家】という心惹かれるパワーワード

 

ベンヤミンという魔術師によって呪縛を解かれた「集団の夢」のミイラ化した破片は、夢全体に比較したら、自由連想を命じられた患者の口から偶然もれた意味のない単語のひとつのようなものかもしれない。だが、それは、同時に、消え去った「集団の夢」の扉を開いて中に入りこむことを可能にする鍵ともなりうるのだ。  集団の夢 p28

 


最初の章でこうまで鼓舞されたらワクワクせざるを得ない。
正直に述べると、終章におけるベンヤミンの思考(一部だが)の凄さの解説は私には燦きすぎて理解が及ばない。断片ごとにはぼんやりとわかるけど、それを繋げることによってどうなるのか、きっと理解していない。
唯物論的歴史記述の本質など素通りして、陳列されているものに目が眩んでいるのだろう。

即物的に、ベンヤミンが蒐集する【破片】の数々に心惹かれる。
あらゆるものをかき集めて、並べ、分類する。
そのベンヤミン流の解読方法を懇切丁寧に教えてもらえた、という認識。

「新たなもの」を「再認識」する、という解読から「集団の夢」からの「弁証法的覚醒」が起きる瞬間への説明を読むと、ハッとなる。
残念ながら、鹿島茂ベンヤミンを指すような〈一瞬の覚醒から火花を放って全てを照らすような知覚〉は持ちあわせていないので、ほんの一瞬だけ理解出来たような感触に過ぎないが。

 

芸術と産業。現代性(モデルネ)、商標。商品価値なるものの出現。需要と供給。夢判断。無為。孤独。労働。連帯。集団的意識ー集団的無意識。衣服の襞ードレスの襞。形象《image》。根源の歴史。


うっかりすると言葉の響きに流されて幻想文学を読んでるような気分にすらなってしまうので要注意。それでもいいような気もしないではないが。

 

 繰り返すなら、ベンヤミンがパサージュや鉄道駅を集団の夢に譬えたのは、われわれが普通に考えるのとは異なって、それらが放つノスタルジックな輝きを比喩的にとらえて「夢」と名付けたからではない。直感のもとになったのは、「夢」の心地よさではなく、夢から目覚めたときの、いわく言いがたい「異様さ」「奇妙さ」である。だからこそ、ベンヤミンは「目覚め」というものにあれほどこだわるのだ。
   テクノロジーとアルカイックなもの p228

 

広告とは夢が産業に押しつけられる際の詭計である。
  パサージュ論[G1,1]の抜粋 テクノロジーとアルカイックなもの p238

 

ベンヤミンが、あるファクターについて「集団の夢」に属しているというとき、具体的には、それは「表現形式の借用」、つまりテクノロジーの内在的論理とは無縁の「仮装」が行われていることを指す。逆に、あるファクターが「目覚めている」という場合、それはテクノロジーの内在的論理に見合った表現形式が採用されているということを意味する。
  テクノロジーとアルカイックなもの p238

 

各章、引用されるパサージュ論本文(ベンヤミンのかき集めた断片も、ベンヤミン自身の言葉も)、それを読み解く鹿島茂の言葉も、いちいちメモをとりたくて仕方がない。
門外漢なりに、何かが擽られまくる読書だった。





私見だが、ベンヤミンの著作(大して読んでません)の魅力であり難解さの原因でもあるのが詩情だと思う。
それを読み砕くにあたって、その詩情を無機質に解剖せずに、鹿島茂流の詩情を加味しているのが読みやすさの一因だと思う。

欲を言えば、もっと図版が欲しいと思った。
今は遠い19世紀を理解する助けとして、というよりも「形象の蒐集」という観点から。

imageが欲しい。それこそ、パサージュ論本体(本体?)に図版が欲しい。
鹿島茂が読み解いてくれればくれるほど、パサージュ論は目で捕猟し蒐集するゲームな気がしてならない。