木曜日。みどりの日。素晴らしく晴天。
空気は爽やか、緑は若く、日差しは暑い。
気温が上がってくると動きたくなる習性。
この時期が農家の人が大忙しなので、田圃道を避けて散歩。
朝。クロワッサン。甘くないヨーグルト。甘くない野菜ジュース。
昼。お店で坦々麺。もちもち系の餃子。帰宅後、テイクアウト分の餃子でビール。
夜。白米。茗荷とオクラの味噌汁。薬味のっけた厚揚げ。鯵のたたき。日本酒少々。
夕食後、わらび餅。お茶。
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日中は生活用品の買い出し。
ついでに、前回はオンラインで購入した本棚用の除湿シートを探すが見当たらない。
あれはwebの彼方にしか存在しないのか。
webの彼方といえば。
先日、Yahooニュースのおすすめ記事の一つに、寺山修司と迷惑系YouTuberを並べたタイトルがあった。
一緒にするなよタイトル酷いな、と思ったが(悔しいが納得もする)、対談者に興味を惹かれ記事を読んだら腑に落ちる内容だった。
嘘と捉えるか演劇化と捉えるか。
時代と社会と、何より使用可能な媒体が違うけど、ある種の承認欲求という点が同じというか。実験演劇、という名目でちょっと崇高さが付与されているというか。
学生から社会人に差し掛かっていた一時期。
演劇にハマって、寺山修司の戯曲を知って、寺山修司の詩集を買って、少女革命ウテナもあって、天井桟敷を調べて(【実験】に軽く引く)、寺山修司関連の本を読み漁って…今はすっかり本棚の奥、といういわゆる『真面目に読んでた』私には新鮮だった。
しかし。存命だったら嬉々としてYouTube使うだろうな、と思う反面、同列にしちゃ駄目でしょ!と言いたくなるジレンマ。
幼稚な承認欲求の乱れ打ちと、人生を演劇化してしまおうする承認欲求の違いというか。
…やはり、どうしても美化しがちになるな。そこが策略だと思っても。
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久しぶりに本棚から取り出したのでもう少しテラヤマ。
「現代詩文庫 寺山修司詩集」思潮社
「現代詩文庫 続・寺山修司詩集」思潮社
寺山修司の世界は、薄暗くて埃が積もって陰鬱な気配を根底にして、性的&暴力的なドラマの一端をドギツイ照明をあててゲラゲラと笑い転げることを強要するような、生臭くて性急で、付き合いきれんと閉口するんだけど、たまに驚くほどメルヘンなものを放り投げてくるような、煙に巻かれっぱなしな気がします。
マッチ擦っちゃう初期詩篇は有名なので、横溝ワールドも彷彿させる『田園に死す』から
大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ
たつた一つの嫁入道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり
中古(ちゅうぶる)の斧買ひにゆく母のため長子は学びをり 法医学
川に逆らひ咲く曼珠沙華赤ければせつに地獄へ行きたし今日も
鋸の熱き歯をもてわが挽きし夜のひまはりつひに 首無し
『花粉航海』から、探偵小説っぽい!と好きで書き写していたものを数編。
混血の黒猫ばかり飼ひあつめ母の情夫に似てゆく僕か
暗き蜜少年は扉の影で待つ
秋は神学ピアノのかげに人さらい
肉体は死してびつしり書庫に夏
短歌も俳句も好きだけど、この人はやはり様々な詩&戯曲だろうか。
エッセイ、小説と紹介されるよりも、詩集、歌集、句集、戯曲、譚、法螺話与太話とした方が相応しいと思うのは、私が常日頃から言葉にだまくらかされているからか。
『長編叙事詩 李庚順』『新・餓鬼草紙』は今読んだ方が面白さが分かる気がする。
『連作詩集 文通違反』の内容は、確か手彩色絵葉書と付随する形で本になっていた記憶。
『トマトケチャップ皇帝』は、タイトルだけでこんなに馬鹿馬鹿しくも不穏なタイトルがあるのだろうかと思う。トマトケチャップの甘酸っぱさすら不穏に感じる。
演劇に夢中だったころ『事物のフォークロア』の一行毎に痺れた。
詩集をパラパラと再読しただけで、いろいろ溢れる。
あの時は半分も理解していなかったなとも思うし、あの時の方が鋭く反応出来たとも思う。
活字消化のため(手にとった本は全部読む、的な)に読んでいた詩論も、改めて読むと面白い。
何年経っても、やはり私にとっての極め付けはこれか。
ぼくは
世界の涯てが
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ
懐かしのわが家より抜粋
手っ取り早く取り出した本二冊。
文字の小ささに震える。ルビが胡麻。
手彩色絵葉書の記憶が気になって検索したら「寺山修司・幻想写真館 犬神家の人々 愛蔵復刻版」を発見。これか?しかし、こんな立派な本は持ってない。
たぶん私が見たのは、本箱に埋もれているムック本経由だったと思う。