木曜日。雲が多いが一応晴れ。朝晩は冷える。
燕が飛来。ここ数年でだいぶ増えた。
鈍臭い生物と思われているらしく、人間を見ても緊張感が感じられない。
物干し竿のご利用は以前からあったが、洗濯バサミにまで止まる。ウンチしたら許さん。
燕に限らず、鳥が賑やか。
土地開発諸々による変化で、近所一帯が狩場と宿泊所の中継地点と化しているらしい。
地上を猛ダッシュする姿でお馴染みの、おしりフリフリ鳥(ハクセキレイ?)が電線に止まっているのを初めて見た。
朝。バナナ。ヨーグルト。グラノーラ。焼きぞばパン。
昼。ラーメン。餃子。
夜。白米。小松菜と牛肉炒め。
食後、コーヒーとシュークリーム。
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「三島由紀夫 薔薇のバロキスム 谷川渥」ちくま学芸文庫
三島由紀夫の作品も興味はあるが、作品および三島由紀夫本人の「解読書」にも常に心惹かれるているので購入。ページ数は薄いが濃い内容。期待を裏切らない。
ちなみに、内容に関しては背表紙のまとめが大変わかりやすい。
内と外という二元論を危うくする薔薇の花弁、腹からこぼれ出る腸の美しさ──皮膚や表層にこだわり続けてきた美学者である著者は、「内部へ出る」ことにより逆説的に肯定される表面にこそ、三島独自の美意識すなわちバロキスムが賭けられていると見る。薔薇や松をはじめ作品を彩るさまざまな植物的イメージに注目しつつ、『憂国』、『豊饒の海』などのテキストにわけ入り、自死への過程をまったく新たな視点で解き明かす、珠玉の三島論。文庫書き下ろし!
『薔薇』を中心に据え、単純なようでいて複雑な三島由紀夫の美意識の解剖、の感。
序 昭和四十五年十一月二十五日
Ⅰ 映画『憂国』と音楽
Ⅱ 外面と内面
Ⅲ ヘレニズム・バロック
Ⅳ 薔薇狂い
Ⅴ 薔薇のバロキスム
Ⅵ 美しい無智者と醜い智者
Ⅶ 肉体の論理とその逆説
Ⅷ 「存在の劇」 谷崎潤一郎VS三島由紀夫
Ⅸ 死の太陽
Ⅹ 三島由紀夫のフローラ
Ⅺ 松へのこだわり
Ⅻ 死の様式
XIII 「動態」としての文化とその座標軸
XIV 庭と海
結 「お祝いには赤い薔薇を」
序、の割腹事件から始まり、第一章では映画「憂国」とその音楽へと流れ、第二章で三島由紀夫関連では切っても切れない外面と内面に話が進み、二元論をさまざまな視点で眺め、やがてバロキスムの大舞台を精査する。精査というより吟味か。
吟味というよりも、美学の腑分け解剖。
それをうっとり眺めている読者である自分、という感じ。
結、で母倭文重の言葉に至ると黒死館ではないが閉幕(カーテン・フォール)な満足感。
そもそも私は、バロキスム、バロックという概念を頭では理解しているもののそれが如何なるものかを未だに把握しきれていないので、本書で展開されるバロキスムをきちんと受け止めているかは自信がない。
【露出した腸の美しさ】なる言葉も相俟って、優雅に病的に絡みついていくようなイメージが強く、下手すると、歪んだマニエリスムとゴシックが混じり合ってる珍妙な概念を作り上げているかもしれない。
そのため、せっかくの三島由紀夫の美学論なのに、私自身の都合の良い文章の耽溺だけで終わらせてしまっている気がしなくもない。
という読み手の反省もありつつ。
ワーグナー、ビアズレー、グイド・レーニの聖セバスチャンなどこちらの分かりやすいものから始まって古今集の薔薇(そうび)などさまざまなパーツ、『憂国』『豊穣の海』『金閣寺』『鏡子の家』ほか多数の小説と戯曲の作品群が混じり合った美学論は読み応えがある。
艶かしく退廃的にも感じるなかに、「松」への言及が印象深い。