部屋の窓際

好きなものについて描いたり書いたり。

10月7日 そらいろのたねをまいた闘魂

 

金曜日。寒い。めっちゃ寒い。冷たい雨。

昨夜スーパーマーケットに寄ったら、おでんの具の棚が驚くほど空白。

本日は、そこそこ品物が在った。管理者の意地を見る。

 

朝。暖かいスープ飲みつつもヨーグルト道続行。

昼。おかかおにぎり2つと豚汁カップ

夜。適当に魚介を入れた鍋。締めに雑炊。ちょいちょい熱燗。

 

 

以下、寝る前の寝言。

 

 

訃報が続く。

当日のニュースとして書いていたが、なんとなく、記すことを止める。

悼むことが上滑りしていきそうな自分自身への不信感。

 

 

その昔、父が突然死したときに、ふっと浮かんだのが子供の頃に見た救急病院のドキュメンタリーだった。

あの時、やはり父親を突然失ってしまった家族が映し出されていて、その時の画面越しに見た悲痛な病院の廊下と、親戚へ連絡をしている合間にふと見渡した自分自身のいる病院の廊下が一致した。

あの時に強烈に罪悪感と後悔を感じた。

あの家族の悲劇を気楽に眺めたから罰が当たったんだ、と。

 

今なら、テレビ番組として消費することへの罪悪感と迷信じみた思い込みの結合であることは解るのだが、この感覚が抜けない。

医療従事者の実情を受け止めようというつもりでも、映像としてダイレクトに、他人の悲劇を覗かざるを得ないという、ちりちりとざらつく罪悪感。

いまだに医療系ドキュメンタリーは見ない。見られない。

知るべきものもあるとは思うので、文字で追うことにしている。

 

要は、映像などに関する消化機能(?)が未だにお子様である、ということなのだと思うが。悲劇に酔いがちな自己嫌悪も含めて。

 

 

ちなみに文字で、と記したが。

中井英夫「月蝕領崩壊」だけは、一度読了し以後ページを開いたことがない。

全編に漂う悲痛さというか、後悔の念が伝染しそうで恐ろしい。

嫌悪ではなく、ただ恐ろしい。畏れる、が近いかもしれない。