部屋の窓際

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読書メモ「いとま申して」から蝶へ

 

 

 

 

慶應本科と折口信夫 いとま申して2 北村薫文藝春秋

「小萩のかんざし いとま申して3 北村薫文藝春秋

 

北村薫が、亡き父の日記を丹念に読み解いた物語。

退屈、と感じる人も当然いると思う。

日記物(?)が好きなので波長が合ったのかもしれない。

 

昭和初期、学問に燃え歌舞伎に熱中する一青年の日常が存外面白い。

どちらかといえばお坊ちゃんの主人公・演彦の慶應予科本科&ちょっと後の日常。

学問(国文学・民俗学)に熱中し史料を探索し興奮するといった青年らしい熱気と共に、肉親との別れや、家計の傾きによる焦燥、世界的不況による就職難という苦境も描かれているのだが、常にどこかほのぼのとした空気が残る。

日記から伺える主人公の気性と、それを包み込んでいる筆者の視線の優しさ。

 

 

縦糸が父の日記なら横糸として次々と色が差し込まれるのは解説にもある通り、その時代の父の周囲の人々(近距離、遠距離、並走した人、交錯した人、かすりもしなかった人等々)。これを膨大な資料を使って描いていく。

さらりと触れたと思ったら、するすると掘り下げまくってでっかい実を取り出して見せる、といった具合。これを読んでしまうと、全く知らない分野なのに横山重とその仲間たちに興味を抱かずにはいられない。

この辺り、円紫さんと私シリーズの「六の宮の姫君」に近いものを感じる。

 

 

優しいといえば。

父の恩師である折口信夫への視線もひたすら柔らかい(折口に限らないけど)。

折口信夫と聞けば、私などは実績はともかく人物としてのゴシップ要素の方が印象に強いのだが、それらを欠片も匂わせない。終盤、それのことかな?と思う部分もあるが、あくまで微かに香る程度。しかもその視線がまた優しく柔らかい。

優しいのか潔癖なのか。

 

 

 

ここで少し変わりますが。

 

私はずっと北村薫作品に出てくる人物は『みんな心優しく穏やかで柔らかすぎる世界の住人』だと思っていた。円紫さんと私シリーズ&エッセイ類しか読んでいないので思い込みも甚だしいのかもしれないのだが、あまりに柔らかすぎる世界で居心地の悪さすら感じることもあった。

その昔に読んだ、これまた円紫さんと私シリーズ「夜の蝉」という作品。

ソログープという作家に興味を持った主人公の《私》は知り合い(男性)から借りるのだが、それがグロテスクとエロチシズムの作家と評されていることを知り激しい羞恥心を覚える、といった描写があった。違和感しか覚えなかった。この作者は女性を理想化しすぎているんじゃないか?と反発すら覚えた。

 

北村薫作品を読んでいつも覚える、優しいという肯定感と潔癖という反発感。

 

 

 

いとま申してシリーズを読了して(1は欠けてるけど)一つ理解できたことは、北村薫さんは芯の部分から優しく柔らかい(軟弱という意味ではない)のだな、と。

この演彦さんを父親として持ち慈しまれて育ったなら、と強烈に納得出来た。

 

 

 

ちなみに、あまりの初々しさに反発しつつもソログープを知るきっかけになったので「夜の蝉」には感謝しかない。

 

 

 

これがきっかけで他のソログープ作品を検索した結果、八本脚の蝶に辿り着いたのもだいぶ昔。六月の下旬だったことは今でも覚えている。