部屋の窓際

好きなものについて描いたり書いたり。

6月12日 読書メモ「ヴィクトリア朝の宝部屋」


月曜日。梅雨入り後の雨。気温が低いのが救い。
『世紀王ムーンドライバー』めっちゃカッコイイ!!と思い、何度も公式動画を視聴し値段を目撃して正気に戻る、を繰り返す。


朝。バナナ。ヨーグルトに蜂蜜、グラノーラ。白湯。
昼。チキンサンド。春雨サラダ。わかめスープ。
夜。白米。オクラとナスの味噌汁。ピーマンとツナ炒め。チーズオムレツ。

食後、コーヒーとチョコ。


岡田信長は、未来を見据えすぎていて現実対応の器が小さいのでは?と思う点あり。
ムロ秀吉は闇がない。闇じゃなくてあれは一種のサイコパス
むしろ周囲が戦国サイコパスで、秀吉が『取捨選択して生き残る常識人』かもしれない。
…と、少し前まで思っていたが「設楽原の戦い」で両人僅かに人間味が出てきた感あり。

前々回、信長の無理難題って『全員お揃いで月代!』じゃないだろうな?と思っていた人間なので、観察力皆無だが。

物語は面白いのだが、CG描写がずっと馴染めない。
紙芝居感というか絵が浮きまくっているというか。
テレビのCG処理でこれほどの違和感を抱き続けるのなら、数値海岸なんてまだまだ夢の世界だな、という謎の安心感。

しかし、今回は勝てそうな武田軍だったなあ。
有名武将が出なさ過ぎるのが、戦国好きな人には物足りないだろうけど。





ヴィクトリア朝の宝部屋 ピーター・コンラッド/加藤光也訳」国書刊行会

第一章 無頓着な全体
第二章 絵画を読む
第三章 都市とピクチャレスク
第四章 細部と努力
第五章 建築を読む
第六章 「過去は詩人に、現在は豚に」

まえがきと、六章から構成。
小説、絵画、建築、散文と詩といった媒体を具(つぶさ)に玩味し、ロマン派からヴィクトリア朝文化(思想?)が形成されていく過程を追いかける。
反古典のロマン派から、ヴィクトリア朝の芸術へ。発芽とうねりと、行き詰まりと、やがて古典への回帰。生活と芸術。
規律からの逸脱、開放、有機的な特性がやがてイコンへと固まる。

豊富な資料を次々と繰り出されるのだが、こちらの知識不足で資料に溺れる。
読んでる間は、なるほど!とも思うのだが、読了後この感想をまとめなさい、と言われるとさっぱり手が出ない程度の理解力しかないのが残念。


ロマン派によるシェイクスピアの再発見。
有限である(と、当時は思われている)演劇からの開放、小説という新しい存在の無限性、とぐんぐんと広がっていくはずの世界が巡り巡って細部へ細部へと暴走していく様が面白い。
収縮ではなく、膨張。細部の充満、膨張。偏執、と言って良いかと。
細部へ細部へ。リアル、更にリアルに。滑稽なほどの細部の努力。
細部に宿る、ではなく、細部に喰い尽くされている感じ。
絵画が『物語』を求め生じていく齟齬。釉薬。ピクチャレスクな視点。室内、の獲得。

各章に必ず現れていたような気がするベーコンを用いた例えが印象的。
赤身と脂身。赤と白。喜劇と悲劇。堅固で質素な土臭さと、繊細な装飾的細部。

リアリズムへと突き進み、病んだリアリズムが充満して閉塞感で膨れ上がるのは今も同じでは?とも思ったり。現代はそこで行き詰まることなく、フェイクと絡み合ってさらに膨張するという事態になっているが。


理解が半分も及んでいないのだが、面白い。
わがままをいえば、列挙される絵画や建築をカラーで眺めたい。
本を片手にある程度検索をしてみたが、やはり視覚的な資料の存在は大きい。編集(特に著作権)が大変だと思うが、電子書籍の可能性というのは、こういう点にあるような気がする。