部屋の窓際

好きなものについて描いたり書いたり。

8月11日 読書メモ「旱魃世界」


金曜日。山の日。私は海派。
雨の予報だったが晴れ。
とりあえず洗濯物を干し、筋トレ。
あっという間に乾いているのを取り込んでから外出。


朝。フランスパンにハムとチーズ。バナナ。ヨーグルト。コーヒー。
昼。稲荷寿司。枝豆。胡瓜とわかめとカニカマの酢の物。焼き鳥。ビール。
夜。素麺。茄子、ピーマン、厚揚げの含め煮。豚肉と山芋炒め。冷やしトマト。焼酎。

食後に水まんじゅう。


初回放送を撮り逃した「帰ってくれタローマン」を無事録画。
「タローマンなんだこれは入門」も発売されたし、いよいよブームに終わらない大復活なんですね!つぎはシン・タローマンか。


 

旱魃世界 J.G.バラード山田和子訳」創元SF文庫


危険な暑さの続く日々に読むには最適すぎるというか、確実に雨は降るという一種の安心感(安心でもないが)のもとに読むのが境界の縁を遊ぶような感覚というか。


裏表紙にある紹介文は以下の通り。


十年ほど前から徴候を見せていた世界的な旱魃は、各地で急速に文明社会を崩壊させつつあった。人々が競うように水を求めて海を目指す中、医師ランサムはハウスボートの船上で、破滅までの残された時間を緩慢と生き続けていた……。生物を拒絶するかのごとく変質する世界をシュルレアリスム絵画のように描き出した、〈破滅三部作〉の一端をなす『燃える世界』の完全版、本邦初訳。

 

新社会人になりたての頃、「燃える世界」を一度読んでスペースの都合上手放した。
同じく手放した「結晶世界」「沈んだ世界」は再び購入できたが、「燃える世界」は失われたままだったので再び手にとれて嬉しい。
メタモルフォーゼを遂げて戻るとは、なんてSF的。
ちなみに、私のSFの概念はガバガバである。あの大宇宙や内宇宙ほど広くはないが。


なんとなく終末、ではなく旱魃に至った経緯も説明されているのだが、ざっくりいうと海洋汚染。垂れ流され続けていた工業廃棄物によって、海で生成された飽和長鎖高分子重合体でできた薄膜が海岸から沖合に至るまで覆いつくしてしまう。空気と水の界面に広がっているがゆえに海面の水が蒸発するのを阻害され、大洋のど真ん中でしか雨は降らず陸地は大旱魃に至る、というちっとも笑えない未来。





徹底的な改稿とあるが、その差を読み比べるほどの記憶は残っていない。
ただ、ひたすらに気怠い世界に戸惑いその気怠さが心地良くなっていった記憶。
主人公は、なにものにも立ち向かわない、という認識だった。
そのため、一部終盤から二部の展開がかなり意外。

とにかく、全体の雰囲気は気怠い終末。
死を望んでいるわけでもないが、ランサムは現在を生きることを拒絶している気がする。拒絶、という能動的な意識すらないのではないか。大移動をする人々を眺めつつ、ボートハウスという自身の大切な繭に閉じこもり諦観という衣を被る。
本人の弁からすれば、入退場の混雑を避けてじっと待ってたとも言えるが。
ボートハウスに閉じこもって見据えるタイプだと思っていたので、海岸に向かうという意外性。やばい集団と銃撃という暴力と炎上する都市は、ローマ帝国滅亡じみてる。

二部の塩の海岸から、水脈の可能性を得ての再出発という逆戻り行程が、時間の振り子のようでもある。ランサムの望むのは、過去と未来?
過去と未来が欲しいということは、要するに永遠か。
気になる単語、聖櫃、真空、景観(ランドスケープ)。

干上がっていく世界と、海岸で人が溢れかえる世界と、塩の世界と。
デストピアではあるのだが、描写に美しさを感じはじめるのは「イヴ・タンギー」というキーワードのせいか。あの絵は時間の停止を感じる。


ローマックスのイメージが、ファントム・ オブ・パラダイスのスワン一択。ジーザス・クライスト・スーパースターヘロデ王的でもある。
ローマックスよりも上をいくミランダのデカダン
クィルターとミランダが新しいアダムとイヴとすれば、ローマックスは失脚した神か。
白いライオンを連れたフィリップとキャサリンこそが新しいアダムとイヴか。

神話に喩えることが古いのかもしれない。
穏やか、では決してないが緩慢に迫ってくる死に対し憧れも感じる終活ファンタジー

雨は恩寵だろうか、嘲笑だろうか。